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L松原敏明の葬儀が二月十六日に執り行われました。L松原がこんなにも
急逝するなどとは思ってもいなかったので、何のお見舞いの言葉もかけなかった
ことが、悔やまれてなりません。
L松原はクラブ入会から未だ三年余りにしかなりませんが、私が会長を拝命した
第四十八代の執行部でライオン・テーマーを務めていただいた大切な同志でした。
その期の終わり頃になって体調が悪くなり暫く入院していた頃は肺の病気
でしたが、退院した時は「元気になりました…」といって笑ってたのが印象に
残ります。
その後、聞くところによると会社も第一線を退いて、これからが目分の余生を
充分に楽しむのだと頑張っていたかを聞いて、気の毒やら可哀そうで胸が張り
裂けそうでした。
L松原は細身の体ながらゴルフなどでは壮健で、時折ジョークを飛ばしたりして
周囲を笑わせていました。何といっても圧巻は十七年十二月の家族忘年例会が
岡垣町の「ぶどうの樹」で開かれたとき、恒例の歳末募金をお願いする前の
余興で「白浪五人男」の「南郷力丸」という大泥棒に扮し、大袈裟な台詞を述べて
演じたときのことです。
「よし、何時かまた、一緒に何かやろう」と思いましたが、それも、もう出来ません。
惜しい会員を亡くしたと残念でなりません。どうぞ彼方の方に行かれても、
直方クラブのことを時には思い出してください。
(白石栄治・ 2007年3月年輪・掲載) |
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南さんが現役(直方信用金庫理事長)の頃、私は理事長室に時々遊びに寄り、
色々と世間話をさせて頂きました。その折、印象に残っている話を紹介します。
理事長室に入るとすぐ、「総務課?、お客様だからお茶をお願いします」と電話され、
するとお茶かコーヒーを持って女性の方が来室されます。
見事に教育されているなあといつも感心していましたが、ある日、その方が
テーブルにお茶をこぼされました。その時南さんはとても優しく「やけどしなかった?
大丈夫ね」と声を掛けられました。いつも業務の面ではとても厳しい理事長を見て
いたので、何かホッとさえする感じでした。
私達二人の会話の半分は、いつも酒(日本酒)の話で、心の底から一杯ご酒を
頂いたような気分で席を立ったものです。
南さんの人生の後半は波乱万丈だったかも知れませんが、現役時は地元と共に
栄える信用金庫をモントーに、地元の企業を充分に支えられました。直方から
また一つ、大きな星が消え去りました。残念でなりません。心からのご冥福を
お祈り致します。
(松藤清秀・2007年2月年輪・掲載) |
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3月15日にL梶谷がご逝去されました。
昨年12月に産業医大に入院されていたが、正月を迎えるため時帰宅して、また、
自宅の温かみを感じる間もなく病院に戻られていた。
その後、主治医も驚くほど何度も危篤状態を乗り越えられ、病院では不死身の
梶谷さんと云われるほど、一生懸命頑張っておられたようです。しかし、最後は
奥様や子供さんの手厚い介護も空しく、帰らぬ人となられた事は大変残念で
なりません。
L梶谷とは高校同窓会の先輩であり、また人生の先輩として何かと教えを受けた
人であり、物事を真っ直ぐ見て、正義感が強く率直な意見を持ち、常に奉仕の心
の有る方でした。
ライオンズでは、直方LCの第33代会長に就任(1990年・平成2年〜3年)当時幹事
を頼まれて、一年間良い経験をさせて頂きました。また、L梶谷はとにかくビール
(サッポロ)が好きな方で、その頃の五役もみんなビール党でした。例会・理事会
などの帰りには、何時も有楽町に出かけては、その日の反省や出来事を酒の
サカナに、よく飲んでは集まりました。その様な執行部五役を、直方クラブの
愚連隊(名付け親はL南)と云われ、とても不名誉な名前を付けられた事でした。
(現在は紅蓮会に名称変更)そして、その頃あまりにも頻度が多いので、L梶谷
会長の発案で回数を回減らしたっもりで、LC1F基金(積立て講)を始めようとの
提案で執行部五役が、個人献金(一口1,000$)を実施した経緯があります。
これが良い事例として、現在もそのまま継続されている事は、L梶谷も喜んで
おられるでしょう。
永年お付き合い頂いた中、まだまだ語り尽くせない事や、多くの思い出が沢山
ありますが、最後に故L梶谷地のご冥福を心からお祈りします。
平成18年3月31日(吉岡陽三・2006年4月年輪・掲載)
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